福島県南相馬市から憲法九条きゅうじょうを守り、戦争反対・脱原発を訴える

私の戦争体験

その1 | その2

見つかった父の「戦死公報」その1

九条きゅうじょうはらまちNo.370(2022年1月24日)

父は24歳で戦死 私は3歳でした

 つい最近、私の母が残しておいた父の「戦死公報」が見つかりました。原本はガリ版刷りのものですが、とても私には読めませんでしたので、歴教協の方に現代語訳をしてもらい、また、父が属していた部隊がどういう任務を持っていたかも調べていただきました。
 「公報」には戦死した場所が明確には書いてありませんが、戦後父の戦友から直に聞いた話では、「7隻の貨物船で移動中、米軍の飛行機に爆撃され、4隻がやられた。私はやられない方に乗っていたので、こうして帰れた」と話していました。

「父ちゃん」を一度も使ったことがない

 父は1920(大正9)年福島県行方郡塚原村(※謄本のまま 現・南相馬市小高区)生まれ。兄弟7人中の三男。(いわき市)四倉で船大工として働いていた。1940(昭和15)年母と結構、相馬郡金房村大富に婿入り。まもなく赤紙が来て出征しゅっせい
 私は1941(昭和16)年に生まれましたが、父(渡部 豊)は1944(昭和19)年に戦死。享年24歳で、私は3歳でした。父がまだ仙台の部隊にいた時、赤子の私と面会したそうですが、生涯で”親子らしいこと”をしたのはそれが唯一です。だから私は生まれてこの方、「父ちゃん」とか「お父さん」「おやじ」というコトバを一度も使ったことがないのです。
 男手のない農家がどんなに大変だったか、私はよくわかります。当時、男はほとんど兵隊に取られ、再婚すらできず、母は死ぬまで寡婦かふでした。祖父や祖母がいたから何とか一人前にしてもらいましたが、戦争なんてとんでもないことです。日本が仕掛けた戦争で、日本人300万人超戦死、原爆二発も落とされるし、アジア諸国では2000万人も・・
 「国民の生命と財産を守るために軍隊は必要。そのために(武器は持たない、戦争はしない)憲法9条を(できる様に)変える」と安倍元総理を先頭に言っていますが、この「戦争公報」を読むと、いかにそれがウソかがよくわかります。来年、「明文改憲」(国民投票)を参院選と同時投票でやろう、と非常に危険な状況です。

「戦死公報」を子どもたちに伝えたい

 自分で言うのも何ですが、この「戦死公報」は非常に貴重な資料だと思いますので、今、教室にいる子どもたちにしっかりと伝えていかなければ・・・と思います。また、各分野で活用されることを希望します。それが私の父や同じ様に無念の死を遂げた方々への最大の供養になると思い、皆様にお送りしています。

見つかった父の「戦死公報」その2

九条きゅうじょうはらまちNo.372(2022年3月18日)

 私は8年前東京に行った折、父が祀られているという靖国神社に一度だけ行ったことがある。
 まず大きな鳥居と天皇家を象徴する菊の紋章が目についた。そこには「遊就館ゆうしゅうかん」という「英霊のまごころやご事績じせきを今に伝える貴重な史資料を展示している」(神社の説明)展示館がある。ゼロ戦やそれに搭乗したと思われるの銅像、大砲などが「大東亜戦争七十年展」として展示されていた。
 その1で紹介された私の父の「戦死公報」原文には、「・・・大君の醜(しこめ)の御楯みたてとして悠久之大義に生きることはこれ武士の本懐・・・」と書かれている。「醜」とは「黄泉の国の醜い女鬼のたぐい」(国語辞典)と出ている。要するに「粗末な卑しい身分ではあるが天皇を守る楯として死んだのだから名誉と思え」ということなのだ。こういう趣旨で靖国神社に祭られているということを遺族はみんな知っているのでしょうか。
 私はその時も手を合わせる気にはなれなかったが、総理大臣はじめ閣僚が靖国にお参りするということはまさに戦争賛美、国民の「大君の醜の御楯」と見ている、ということになります。
 私は母に代わって、このことを教え子やまわりの人々に伝えていきたいと思います。