小学6年生の夏、原町が空襲された
昭和20(1945)年2月16日、警報発令が無いところに突然、米軍機が原町の南西部にあった大きな紡織工場<原紡>を襲撃し、動員された就労していた相馬商業学校生や女学生、引率の女教師が機銃を受け亡くなりました。
そして太平洋戦争末期、小学6年生の夏休みの8月9日から米軍機か多数飛来し、再び<原紡>が襲撃され、その時投下された時限装置の付いた数多くの焼夷弾が夕刻になって次々と爆発し、3昼夜黒煙を高く昇らせ燃え続けました。
ラジオの報道で知った広島への原爆投下が6日。この頃から爆撃は大都市から地方へと向けられました。原町空襲は9日から5日間続きました。米軍の攻撃目標は、軍用品を製造する<原紡>のほか、駅東にあった大規模な帝国金属工場<帝金>、町内に点在する町工場、原ノ町駅機関区と貨物列車、町南西部に約3km平方に広がる原町飛行場と特攻訓練の飛行学校、訓練用の多数の攻撃機、それに陸軍部隊の数十名が分散駐屯する原町小学校が攻撃されました。スパイなどを使い、よく調べ尽くしていたのです。
原町空襲の日々は、幼いながら死を覚悟する毎日でした。攻撃目標となった所に死傷者が多数あったことを知ったのは数日後でした。
米戦闘機を必死に図画帳に描いた
8月9日、けたたましい空襲警報のサイレンが町内外に鳴り響くと、すでに東上空高く10機余りの戦闘機の編隊が轟音を響かせ迫ってくる。庭先に造った防空壕には、日用品や学習品の一部を保管していた。家族皆で駆け込んだ湿っぽい壕の小窓から見える戦闘機の姿を、恐怖に震える手に図画帳を持ち、必死に描き続けました。数機が上空で旋回しながら待機し、別の数機は急降下し、超低空から猛スピードで工場を攻撃する。両翼から機関砲の火が轟音と共に噴き出す。胴体の中央にこれから投下する爆弾が一つ装備してある。くすんだ青の機体に白い星のマークがはっきり見える。
本件近海に迫る航空母艦から発信する艦載戦闘機グラマンF6Fでした。その高性能については、当時の航空雑誌に詳しく載り、知っておりました。近くの目標が攻撃を受けた時は、多くの雷が一度に落ちたような音と地響きが続き、屋根や庭先には多量の薬きょうが落下し、火薬の匂いを強く感じました。
ショックだった原町小学校の空襲
10日、民間には手を出さないと分かっていましたが、私の家の西隣の朝日座は無傷でしたが、小学校がやられたという知らせに警報解除後自転車を飛ばして行ってみると、驚きの余り立ちつくしました。2階建ての大きな正面の校舎が中央から真っ二つになり、2階中央の私たち6年生の教室が吹き飛び、北裏にあった職員室も姿を消してしまい、校庭中央には不発の爆弾が一つ突き刺さり、すでにロープが張られ、軍と警察関係者が動き回っている姿を目にしました。何よりショックだったのは、駐屯していた陸軍兵士の多数の遺体を軍用トラックに積み込む姿でした。大量の血を荷台からしたたり落としつつ西の方へ走り去りました。この日の夜は一睡もできませんでした。
感動を抱きつつ新憲法を学習
8月15日、天皇の放送を聴く機会はありませんでしたが、もう空襲はない。すべてが終わった。夏休み空け、全校生徒約1,500人が無事だったことを知りました。自由な先が見えるようでした。戦争の惨禍を再び繰り返してはなりません。
昭和22年5月、新憲法が施行され、原町高校併設中学校3年生の歴史の時間、ある種の感動を抱きつつ、新憲法の学習をしました。特に憲法第9条(戦争の放棄)、そして21条(集会結社表現の自由)、23条(学問の自由)が時の政権によって歪められることが絶対にあってはなりません。