長崎神学校の生徒で動員中に被爆しました
私は福島市出身、昭和二年生まれです。長崎で原爆を体験した時は、十八歳で長崎神学校という専門学校の生徒でした。
その神学校は二年制で、全校生が百名程度だったと思います。徴用逃れのために入学していたのです。生徒は長崎付近の出身者が多く、福島からは私ひとり、宮城県からもひとりぐらいだったと思います。
八月九日午前十一時二分 肩にガラスが刺さるけがを
戦争も激しくなって、私たちも動員で長崎市内のあちこちの向上に分散して働いていました。その日も、私は南山手町という爆心地から南へ、四、五キロメートル離れた工場で働いていました。だから工場の中にいる午前十一時二分、原爆が投下されたわけです。
ものすごい音がして、爆弾がすぐ近くに落ちたような気がしました。屋根瓦が落ちてきたり、ガラスが破れて私の肩に刺さりました。このとおり肩に三、四センチの傷が今でも残っています。私の被害はそれだけで、別に熱線とか放射能の影響は全く受けていません。
きのこ雲で町も暗くなる
その後、きのこ雲が空いっぱいに広がってきて、町も暗くなったことを覚えていますし、工場内の後片付けなんかをしました。
校友たちは火傷して悲惨でした
数時間後に、あちこちに分散していた校友たち、三菱工場で作業していた校友たちですが、悲惨な格好で学校に戻ってきました。ひどいやけどを顔にしていて、皮がぶらさがっていて、その皮をハサミで切って薬を塗ってやったり。薬といっても赤チンキとか、亜鉛化軟膏なんかのありあわせの薬で、それも少なくて、四、五人でなくなったみたいです。
顔なんかひどいやけどをすると、すごくふくれるものですね。皮がむけたのがピンクというか、赤くただれてひどいもんです。学校の寮が臨時の救護所になったようなぐあいです。
私たちは元気だったので衛生班を組織して、やけどをしたり、けがをした校友たちのだれということなしに看護をしたわけです。
看護や手当をするといっても、薬もないし、食料もありません。担架で運ぶ途中で死んだ人もいました。長崎の近くの出身の負傷者は、やがて家族や親が迎えに来て引き取られていき、だんだん少なくなっていきました。
亡くなった校友の冷たい手
ある校友は、私が手をにぎっている亡くなりました。冷たい手でしたね。最後に「お世話になりました」と私に言ってなくなりました。父親がかけつけてきましたが、今でも忘れられないことです。負傷した校友の手当をしたりしても、別に気味わるいとか、くさいとか、そんなことを考える余地なんかありませんでした。夢中だったんですね。
爆心地には黒焦げの死体が
爆心地付近へは一週間後ぐらいに行きました。一面の焼け野原で、どこを歩いてよいのか道もわからないで、私は便所のために落ちたりして。黒焦げの死体もころがっていたようです。なんていっても、ひどい臭いがしていました。腐ったような、人の焼けたような、なんとも表現できないひどい臭いでした。長崎には、翌年昭和二十一年三月までいました。
戦争そのものが罪悪です
戦争そのものが罪悪です。軍国主義の時代はもう二度と来ないでもらいたい。反核運動、市民運動で戦争のない社会ができれば理想ですね。市の文化センターで上映された『人間をかえせ』も女房と見に行きました。五月の時で大混雑していた時です。がんばってください。