私の戦争体験
私が伝えたいこと①
まなびあい南相馬発行『語り継ぐ ふるさと南相馬』より
父母の生い立ち
私の家は、原町区の四つ葉通りの角で「ノムラ商店」という雑貨屋さんでした。両親が、マッチ、木箱ひとつから自立して、小林眼科のとなりにお店を建て商売を始めました。
父は野村清助、明治35年生まれの三男坊。尋常小学校四年生で卒業すると、相馬の桜井呉服店というところに丁稚奉公に出されました。母ミツは明治三十九年、双葉町新山の下条の生まれです。三反百姓の娘だったので大変働き者で、それでは母は原町の父にお嫁にきたんですね。
孤児で苦労した祖母
その父の母親は明治九年生まれで、親の顔も名前も知らないみなしご。町の資産家のところに六歳の時から働いていた。字は少し大きくなってから、いろりの灰で「いろはにほへと」だけはカタカナで、火箸で書いて覚えた。昔の「おじん」状態でしょうね。「六歳の時から人の釜の飯を食べた苦労はお前たちにわかるか」って言っていた。訳あって三男の父のところにきました。
幼いころの戦争の記憶
私は昭和十五年生まれで、戦争の事は、幼い記憶です。終戦は昭和二十年で五歳のとき。でもなんか人間の記憶って不思議ですね。すごく強烈なことは覚えていて、小学校の事は覚えていなかったり。姉は昭和七年生まれで八十四歳になりますが、結構覚えています。
原町紡織工場が空襲されて
原町には「原町紡織工場」という陸軍の軍需工場があって、爆撃にあっています。小学校は国民学校とよばれていて、姉は今でいえば小学校五、六年生。姉と友達が工場の慰問に行ってね。当時あった原町実科女学校の生徒たちが、「原町紡織」に動員されて手伝っていました。ところが「原町紡織」が昭和二十年二月十六日爆撃されて、国民学校の鈴木小松先生が亡くなりました。
四つ葉通りの角の私の家の前のところを、担架で血だらけになった小松先生が運ばれていくのを、みんなで担架のところに集まり、姉も目の前で見ていた。朝日座の前の渡辺病院に運ばれたけど、駄目だったということです。
※小松先生は渡辺病院ではなく、本町の宇津志外科医院(現在の高野眼科院)に運ばれて死去されました。
二上英朗著『原町空襲の記録』(9ページ~)、南相馬市発行『原町市史』(207ページ~)に大変詳しく記述されていますが、事務局の不確認でした。会員さんからのご指摘やご教示に感謝申し上げます。
好きだった飛行兵さんが・・・
また原町には飛行場があり、特攻隊の、今で言うと練習場がありました。そこの兵隊さんの何人かが、原町の家庭に分散して泊まり、うちにもその時泊まっていました。一緒に暮らしていたうちのおばあさんという人は、とっても愉快な、民謡を歌ったり、ひょっとこ踊りをやったりしておもしろい人だから人気があって、兵隊さんたちはとても喜んで、たくさん出入りしていたんです。姉の話では、そのなかに姉が好きな兵隊さんがいたそうです。ところが・・・。
姉は小学五、六年生の頃、渋佐の海でみんなで水泳ぎをしていたら、そこに異様なカーブで突っ込んできた飛行機があったの。うちの姉たちはそれを見て、「変だな、変な方向に飛行機が飛んでくるな」って見ていたら、海に突っ込んじゃった。訓練中の事故でした。そしたら、その方が姉の好きな兵隊さんで、京都のお寺さんの一人息子で、親が遺骨を引き取りに来たそうです。姉の初恋でした。
私が伝えたいこと②
まなびあい南相馬発行『語り継ぐ ふるさと南相馬』より
帰ってこなかった特攻隊員
特攻の人達が、いよいよ出撃のとき、原町の上空を飛び、世話になった家の屋根の上を三度旋回してから行くっていわれていた。汽車で出ていくときは、真っ暗な夜や、朝早く真っ暗なうちに、原ノ町駅から九州の知覧に向いました。うちの父と母と姉とで駅で見送って・・・涙、涙で見送ったんですよ。
小川小尉という人は、もう帰ってきませんでした。何年か経って、母も九十歳になったころ、その小川小尉の遺族がうちを訪ねてきました。母と会い「ここにうちの小川がきて、みなさんとわずかな間でも家庭の味を味わって死んだと思うと慰められます」と言ってました。
今の若い人や学生たちに、「これはあなたたちには教科書の中の歴史かも知れないが、私にとっては現実の話なんですよ」と言いました。そしたら全然そういうのはわからないって。
山寄りの高倉に疎開
ある時、姉に「戦争はどういうことなの」と聞くと、お店で売るものがなくなり、統制経済で品物が配給になり、B29も「ビューン」って飛んで来るなど、いろいろと話してくれました。
原紡(原町紡織工場)が空襲にあい町も危険ということで、家族は高倉の高橋ちゅうぞうさんという家に疎開しました。おばあさんがバスケットに卵などを、お茶筒に貴重品だった塩や砂糖を入れて、母がリヤカーに荷物を積み、姉が押して、高倉の奥まで避難したの。一晩中ずっと歩いたんですよ。歩いても歩いても遠くて、大変怖かったって姉が言っていました。その時私は三、四歳で、山の子どもたちと「ぶくぶく」という鬼ごっこで遊んでいたりで、戦争の実感はあまりありません。ただアメリカの攻撃機が飛んできたときは、物干しの白いシーツなどは目立つから取り込めーとみんなで取り込んだのは覚えています。
また、私は両親に「なんで戦争になるのに反対しなかったの?」と聞いたら「当時ラジオなんて裕福なところだけで、戦争の情報などは全くわからなかった。おしんの世界(笑)でした。」と。
夫は仙台空襲にあい・・
私の主人の野村昭治郎は、昭和九年生まれです。仙台に住んでいたので、終戦間近の昭和二十年七月十日の仙台空襲にあいました。町は全部焼けて、爆撃でやられた死体をいくつも見たそうです。主人も防空頭巾や服から出ていた腕や顔を火傷し皮膚が薄くなって、今でもなんだか、陽に当たると赤い顔になるんですよ。
戦争っていうのは、人間が人間でなくなるって言いますよね。アメリカ人と日本人も貴重な命ですが、戦争になれば、兵隊さんだけでなく普通の人の命もたくさん犠牲にしたことをきちんと伝えなければならないですね。
歴史学習は現代史から始めては
今の学校の歴史学習は、縄文時代から弥生時代、何時代と順に習うんでしょうけど、私は逆に現代史から過去を遡って学習したほうがいいんじゃないかと思っています。今のうちに生の声、広島の語り部とか、沖縄の戦争体験などを、聞けるうちに聞き、ちゃんと文章に残しておきたいものです。
中学の社会科の中沢先生は、退職される最後の授業で私の質問に答えて、「戦争は相手の国民や国を信じないから起きる」と話していました。これからも戦争のない世の中であってほしいと、心から願っています。