用語の説明
各体験の文章の中から、戦争中の用語で現在は使われないものを、『広辞苑』などを参照し考えてみました。
満州国 まんしゅうこく
日本が満州事変により中国の東北地方に作り上げた傀儡(かいらい)国家。1932(昭和7)年、清朝の宣統帝溥儀(ふぎ)を執政として建国された。首都は新京(長春)。1945(昭和20)年日本の敗戦で消滅。
大政翼賛会 たいせいよくさんかい
1940年10月第二次近衛内閣でできた新体制の国民を統制する組織。
八紘一宇 はっこういちう
太平洋戦期、日本の外国進出を正当化するために用いた標語。世界を一つの家とすること。「宇」とは屋根の意味。出店は『日本書紀』
銃後 じゅうご
女性や子供など、直接戦闘に加わらない一般国民のこと。
出征 しゅっせい
軍隊の一員として戦地に行くこと。
抑留 よくりゅう
強制的に自由を拘束しとどめおくこと。
復員 ふくいん
招集を解かれた兵士が帰郷すること。
五族協和 ごぞくきょうわ
和日本・朝鮮・漢中国・満州・蒙古の五つの民族が強調して暮らすこと。王道楽土(おうどうらくど)は、満州国建国の理念だが、見せかけにすぎなかった。
「黒い雨」 くろいあめ
原子爆弾投下後に降る、原爆炸裂(さくれつ)字に巻き上げられた泥やほこり、すすや放射性物質などを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨。
国民学校 こくみんがっこう
1941(昭和16)年から小学校を「国民学校」(初等科6年、高等科2年)と改め、戦時体制に備えた。千五の47(昭和22)年に再び小学校に戻る。
軍属 ぐんぞく
軍人ではなく軍に所属する文官・文官待遇者。
疎開 そかい
空襲や火災の被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散することや、空襲を避け都市かや町の中心部から郊外や山間部に避難すること。
少国民 しょうこくみん
第二次大戦中の言葉で年少の国民、少年少女のこと。
軍神 ぐんしん
すぐれた武勲(ぶくん)をたてて戦死した軍人を神にたたえた語。
空襲 くうしゅう
飛行機から機関砲(大型の機関銃)・爆弾・焼夷弾(しょういだん/焼夷剤と炸薬・火薬を入れた爆弾)・ミサイルなどで地上の目標を襲撃すること。
防空頭巾 ぼうくうずきん
第二次大戦中、空襲の際に頭部から肩を守るため、鉄兜をしようしない婦女子がかぶった綿入れの頭巾
防空壕 ぼうくうごう
空襲の際に待機や避難するための地を掘って作った穴や構築物
傷痍軍人 しょういぐんじん
戦争で負傷した軍人で、昭和20年代、白装束で町角で物乞いする姿がよく見られた。
上海事変 しゃんはいじへん
第一次1932(昭和7)年と第二次1937(昭和12)年の2度にわたって中国の上海で起った、日本と中国の軍事衝突。
これがきっかけで日中戦争は泥沼の全面戦争へ発展し、中国国民政府は首都を南京から重慶(じゅうけい)に遷都(せんと)した。
郡山空襲 こおりやまくうしゅう
1945(昭和20)年4月12日、7月29日、8月9日、10日の計4回の空襲。
日東紡績(ぼうせき)などの軍需工場があり、被害が最大だったのは4月12日の空襲で、B29爆撃機約140機の空襲で死者は460人で県内最大の被害だった。
学徒動員 がくとどういん
アジア太平洋戦争下の労働力不足を補うため、男女を問わず全員の学生・生徒に対して軍需工場などに強制された勤労動員。
相馬商業学校(現・原町高校) そうましょうぎょうがっこう
戦時非常措置法で昭和19年4月から「相馬工業学校」に転換。終戦の翌昭和21年4月に「相馬商業学校」に戻る。
さらに昭和23年4月から町立原町女学校を統合して「福島県立原町高等学校」となる。
玉音放送 ぎょくおんほうそう
1945(昭和20)年8月15日正午の昭和天皇の肉声を流したラジオ放送。ポツダム宣言を受諾し降伏するという詔書の朗読の録音
出征 しゅっせい
軍隊の一員として戦地に行くこと。
大東亜戦争 だいとうあせんそう
戦時中に「大東亜共栄圏」を正当化するために呼んだが、現在はアジア諸民族への侵略と対英米戦争の二面性から「アジア太平洋戦争」と言う。
特攻隊 とっこうたい
太平洋戦争末期に日本軍が行った、航空機や人間魚雷、特攻艇などをもついて敵艦船に体当たりする攻撃。
多くは10代から20代の若者によって行われ、死者は海軍が4,146人、陸軍が2,225人の合計6,371人にのぼる。
1944年10月、フィリピンのマニラ第一航空隊の大西 瀧治郎(おおにし たきじろう)中将が発案(大西は終戦の翌16日割腹自決)、10月25日神風特別攻撃隊の敷島隊5機がレイテ島沖に出撃したのが初めてで、その2番機が南相馬市原町区出身の中野磐雄(いわお) 19歳でした。
その10日後の11月6日には同じ原町区出身の志賀敏美(としみ)がルソン島沖で特攻死し、両者の胸像は南相馬市原町区にある夜の森公園に建っています。
大東亜共栄圏 だいとうあきょうえいけん
太平洋戦争期に日本が掲げたアジア支配や侵略を正当化するためのスローガン。欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国、東南アジア諸民族の共栄共存を説く。
1940(昭和15)年、外相松岡洋右(まつおかようすけ)の談話に由来。
召集令状 しょうしゅうれいじょう
軍隊が在郷の者を兵士として兵士として徴用するために個人宛に発布する令状。赤色の用紙だったので「赤紙」と呼ばれた。
大日本帝国陸海軍のほか、日赤の従軍看護婦にも送られた。日本赤十字社看護婦の場合は養成期間3年で、後20年間の応召(おうしゅう)義務があり、召集令状による病院船に乗ったり戦地に赴いた。
東京大空襲 とうきょうだいくうしゅう
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年3月10日、アメリカ軍のB29爆撃機300機余による東京への無差別の夜間焼夷弾爆撃。
死者約10万5千人、焼失戸数約27万、下町地域を中心に全都の約40パーセント、40平方キロメートルが焦土と化した。
この空襲を指揮したカーチス・ルメイ少将は、戦後の昭和39年に日本政府(推薦したのは、佐藤栄作内閣、小泉純也防衛庁長官、椎名悦三郎外務大臣)から、「航空自衛隊の育成に貢献した」との理由で勲一等旭日大綬章を授与された。
戦時訓 せんじくん
昭和16年1月8日陸軍大臣東条英機の戦時訓には「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の一節があり、多くの軍人や民間人の玉砕や自決する原因となった。
被爆 ひばく
被爆には、直接被爆(一時被爆)、間接被爆(二次被爆)、入市被爆(2週間以内に爆心地から2km内に入った人)、胎内被爆がある。
二重被爆は広島と長崎の2回の被爆者で広島の平和祈念館の調査では164人いるという。山口彊(つとむ)さんは映画化された。
被爆者健康手帳 ひばくしゃけんこうてちょう
広島・長崎の原子爆弾投下で被爆した人に交付され、医療費などの支援を受けることができる。3.11の原発事故被災者へは交付されていない。
千人針 せんにんばり
「虎は千里行って千里帰る」の言い伝えから、布に女性千人が赤糸で1針ずつ縫い千個の縫玉をつくり、出征兵士の武運長久や安泰無事を祈願して贈った。
仙台空襲 せんだいくうしゅう
昭和20年7月10日の夜、B29爆撃機123機で死者1,064人以上、焼夷弾(しょういだん/焼夷剤と炸薬・火薬を入れた爆弾)で市の中心部を消失した。
原町からも仙台の北の空が茜色に見えたという。
シベリア抑留 しべりあよくりゅう
第二次大戦で対日参戦したソ連が、投降した日本軍兵士をシベリアや中央アジアに送り、強制労働に従事させたこと。
抑留者は50万人以上、極寒や粗末な食事など劣悪な環境に置かれて多数の死者が出た。1950年までに大部分が帰国した。
満州開拓団 まんしゅうかいたくだん
1932(昭和7)年に日本の傀儡政権(かいらいせいけん)として建国された満州国、さらに内モンゴルに、国策により満蒙(まんもう)開拓団として27万人の入植者を送り込み開拓にあたらせた。
しかし戦局の悪化、特に昭和20年8月9日にソ連軍が満州に侵略すると関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡し、開拓団の逃避行・引き揚げは攻撃、略奪、殺害、強姦、自決、飢餓(きが)、子供の置き去りなど凄惨(せいさん)を極めた。
敗戦時に満州にいた日本人は約155万人だが、その死者20万人の4割を開拓団が占める。
戦死公報 せんしこうほう
戦地に送り出した夫や息子、兄や弟の帰りを待つ家族のもとに届けられた国からの戦死の通知で、ふつう役場などを通じて届けられた。
靖国神社は、明治以降の戦死者246万余の霊を祀(まつ)る。戦争の美化や正当化、宗教問題、千藩の合祀など批判も多い。